兵庫県立美術館でやっている「クリムト 1900年のウィーン展」を観に行きました。いままで、まとめてクリムトも観る機会がなかったので、良かったです。当たり前ですが、うまいというか、溜め息をつきました。ほれぼれしました。マチスもそうですが、ああいう装飾性というのが、ぼくは好きなんですね(いま思ったんだけれど、ミロの絵も装飾性といっていいのかもしれない)。不満だったのは、ぼくはクリムトの風景画が好きなのですが、今回の展覧会では一枚もクリムトの風景画を観れず、残念だったことです(あ、ぼくがクリムトの絵で、人物画より風景画が好きなのは、風景画には金色が使われていないからなのかもしれません。ぼくは金色があまり好きじゃありません。黄色は好きですけれど)。今回の展覧会では、クリムト以外の、この時代のウィーンの画家の絵も紹介されていて、その画家たちの絵も興味深かったです(エゴン・シーレもありました)。クリムトでは、「ベートーベン フリーズ」という巨大な壁画(壁3面)の複製もあって、その迫力の感触みたいなものを確かめることもできました。
 けれども自分は、美術館などで絵を鑑賞して、「ほんとうに感動した」という経験がないんですね。数年前からですが、興味のある画家の展覧会が近くで行なわれると聞けば、足を運んでいるんです。ゴッホもマチスもフェルメールもダ・ヴィンチも観ました。岡山の大原美術館へも行きましたし、この前東京へ行ったおりにはワタリウム美術館でやっていたヘンリー・ダーガー展も観ました。でも、なんだか、いまいちピンとこないと言うか、それなりにいいなあとか、美しいなあとか、色がいいなあ、本物は違うなあとか思うのですが、心の底から感動する、というのとは違うんですね。これはなんだろうって気になっていたんです。もしかしたら、もう何度も本やテレビで観たものだから、感動しないのかなあ、とか思っていました。それもあるかもしれません。あるいは、一度観ただけではだめで、何度も何度も繰り返し観なければいけないのかもしれません。しかし、ぼくは今日ちょっと思ったのですが、展示の仕方が悪いのじゃないのでしょうか?美術館の、あの真っ白な壁です。あれが、どうも鑑賞の邪魔をしているように思ったんです。たとえばクリムトなら、美術館の白い壁ではなく、茶色か赤い壁なんかが合うと思うのですが、どうでしょうか。あるいは、家の壁紙の上に飾るのがいいと思うのですが。西洋の柄付きの壁紙です。ゴッホなら緑色の壁なんかが合うようにも思います。
 この前、東京にはじめて行ったとき(そのときヘンリー・ダーガーも観たのですが)東郷青児美術館という、ものすごく高いビル(損保ジャパン本社ビル)の上にある美術館に行ったのです。そこではゴッホとセザンヌとゴーギャンを一点ずつ常設展示していました(目的はこの印象派の巨匠の絵を観ることではなく、企画展の日本の若い画家の絵を観るためでした)。そしてぼくはそれ(印象派の巨匠たちの絵)を観て驚きました。そのあまりにも仰々しい展示の仕方にです。まず額が半端じゃなく大きく、金色で、ごてごてと飾りがついていて、立派なのです。ゴッホは生前、こんなに馬鹿馬鹿しいほどの立派な額を、自分の絵に付けられることを予想したでしょうか。本人が観てもびっくりしそうです。そして絵は、強固なガラスでがっちりと守られているのです。ぼくは、ほんとに驚くとともに、笑い出しそうになったくらいです。絵より額のほうが存在をアピールしているのですから。
 そんなわけで、さすがにそれはひどすぎますが、絵を飾る方法によって、その絵の魅力を殺しもするし、生かしもするようように思うのです。大体において、ほとんどの人間的な絵は、貴族の家のシックな壁に飾られるのが合っているように思うのですが…。
 あと、美術館の帰り、ジュンク堂書店という本屋でフンデルトワッサーの全集でしょうか、TASCHEN社から出ている2冊本が見本として置いてあって、値段は9万円もするので手が出ませんが、観るのはいいみたいだったので、一心不乱に他の客などまったく気にせず、全部の絵を観ました。そして、心の底から感動しました。本当に感動しました。自分の絵の半分くらいは、フンデルトワッサーの影響から出来ているのですが(そして、フンデルトワッサー自身はクリムトに影響を受けている…)、本当に、それくらい大好きなのです。これほど自由に絵を描いている人は、アウトサイダーアーティスト以外では知りません。フンデルトワッサーの絵を観ると、勇気が出てきます。本当に素晴らしい絵描きです。ああ、あの本ほしいなあ。よっぽど、店員に無理を言って、いただこうかとも思いましたが…(もらえるわけありませんが、なにしろ興奮していましたので)。しかしとにかく、自分もまた絵を描きたいという欲求が出てきた次第です。