昨日ツイッターで絵について書いたせいで、次の日(今日)になっても考えてしまい、それが少しだけ長くなりそうなので、ツイッターではなく日記に書いておこうと思う。まとまりはないかもしれない。




自分は、こういう絵が描きたいというのがはじめにあって、それをその通り形にするのではなく、道具とかをさわっていると出てきたおもしろさに反応していくうちに、いつの間にか絵が出来ていた、というような作り方をしているのだと、いまさらながらに気づいた。


最近の自分の、図形+コピーぺ−ストで描いているお絵かき掲示板の絵は、お絵かき掲示板の機能を生かしたもので、というよりも機能がそのまま絵になったようなものだと思う。当たり前だけど、アナログの絵ではそんな機能はないので、そういう図形+コピーぺ−ストの絵は描けないし、図形はともかくコピーぺ−ストを手でひとつひとつ再現していくことはできない。
スタンプのようなものを作って押していく、というなら別だけど、手描きではコピーにならないし、「いちいち時間をかけて同じものを描いている」というのが絵に見えてしまうのはおもしろくない。
コピーぺ−ストはコピーぺ−ストしている、楽をして短時間で描いている、と分かるのが良いところだと思う。そういう安易なところとか即興性とか大して考えずに描いているということが、絵に見えたほうが良いと思う。良いというか、良いかどうかは知らないけど自分は好きだ。


自分は、お絵かき掲示板の絵とアナログ(絵の具や鉛筆、コラージュ)の絵の2種類描いていて、それらは見た目がかなり違っている。それはなんでだろうと思うところがあったのだけれど、と同時に別にいいやと思いながら今までやってきて、でもなんとなくそういうことかと分かった。
アナログの絵は、だから絵の具や紙のおもしろさで遊んでいるうちにそれが絵になった、というような感じになればいい。というか基本的にはそうやって描いている。そこに自分の好きなモチーフや物語、かたち、色などを込めれたらいいと思う。もしかしたら、それ以外のよく分からない、言葉にならないものも込めれる(自然と入ってくる)かもしれない。


完成度はどうでもいい。どうでもいいというか、どうでもよくないんだけどそれは結果として出てくるもので、という言い方はスポーツ選手みたいだけど、でもたしかにそうだと思う。完成度を目指すのではなく、途中途中の生き生きとした「描いている」ということが、結果的に絵になるんだと思う。


写真家で、どういうふうに撮ってもそれが正解であるような撮り方をしている人がいて、それはすごくうらやましい。