親戚が亡くなったのでお葬式に行ってきた。


山の中にある火葬場の、ずらっと同じ形の赤い椅子が並べられた広い待合室で、1時間くらい待っているときに貰ったチョコレート味のセブンティーンアイス
アイスのネーミングの由来のひとつ(17歳の女子高生のために)を知っているのでそれを火葬場で食べるのはなんていう皮肉だろうと思って心の中で少し笑った。


窓の外から差し込むやわらかい光と親戚たちとなにもないがらんとした空間と。


もう亡くなっているにしろ、少し前まで肉体があってよく知っている顔かたちだったのに、焼かれた後はただの骨になっているのを見るのは、自分の頭で簡単には処理できない。


嘘を見ているような。


どうしても自分が死んだときもこうやってお葬式をあげられるんだろうかとか、焼かれて骨だけになって壺におさめられて、おさめれないものはたぶん捨てられるんだろうかとか、考えてしまう。


お箸で骨をつままれるんだ。
みんなに見られるんだ。


通夜を待つ時間やお葬式を待つ時間や火葬場で待つ時間などに、故人のことを話すのはむしろはじめだけで、それよりも世間話や芸能人の話や日常の些末な話や仕事の話などがほとんどで、自分が死んだときもそうなるんだろうかとか。


でも先がどうなるかは分からない。


さっき東京へ帰ってきた。
電車の中で、横に座った若い仕事のできそうなスーツ姿の女の人がファーストフードのポテトをごそごそと食べていた。
その強い油の匂いに、逃げ出したくなる。
でも我慢してなにしらぬ顔をして座っていた。


これもまた生きているということなんだ。