はじめに
現在、パープルームギャラリーで行われている「二艘木洋行さんと山本直輝さんの作品をgnck先生をお呼びして検証する展覧会」という長い名前の展示に際して行われたイベント「gnck先生に聞く!ネット絵師講座」の、みそにこみおでんさんの実況を読み、それに関して思うことをいくつかツイッターで連投しました。
読みました。
— qp (@akarusa) 2019年5月19日
「お絵かき掲示板層が厚いとおもいきやそうでもなかった」と梅津さんが発言してますが、案内役のgnckさんがちょっとかたよってるように思いますね。例えばラレコさんの名前とウェブテントが出てこないのは違和感あります。ある時期スキルアッパー、ラクガジェット以上に盛り上がっていて https://t.co/yKaV8ja3tl
イベントの名前の通り、gnckさんという評論家の目線で、ネット絵師に対する「ある意味歪な履歴書」(梅津庸一さんのツイッターからの言葉)としての講座なので、かたよりがあるのは当然としても、梅津さんに「お絵かき掲示板層が厚いとおもいきやそうでもなかった」と言われてしまい、それに対してとくに反論もないというのは、当時、毎日のようにお絵かき掲示板を見ていた自分にとっては、無視することができず、やや取り乱し気味に言葉を発してしまいました。
単純に、お絵かき掲示板層が薄かったとは思えないですし、自分はその部分をスルーすることはできません。
ただし、ツイッターにも書きましたが、世代の違いや趣味趣向、あと単なる出会いの運などによって、目にするものは変わってくるかと思いますし、記憶に残るもの、残らないものも違ってくるかと思います。それは当然です。(そういう意味では、gnckさんがよく名前を出されるJNTさんは、もちろん存在は知っていたものの、個人的にはあまり良さを受け取ることができなかったです。これは単純に好みの問題だと思います…メカに興味を持てないのと関係しているかもしれません)
…そういう風にして、お絵かき掲示板に関して思うことがあったので、この機会に、自分のお絵かき掲示板にまつわる記憶を思い返してみるのはどうだろう、それをブログにまとめたらどうだろうと考えました。
また同時に、自分自身の描いたお絵かき掲示板の絵の遍歴を辿る、ということもしてみたいと考えました。
当時から時間も経ち、記憶が風化していくことのささやかな抵抗としても。
出会い
まず、お絵かき掲示板との出会いを書いておきたいと思います。
自分の場合は、2001年か2002年頃でしょうか…。TOKIYAさんのお絵かき掲示板であるスキルアッパーと、KENさんのお絵かき掲示板が、お絵かき掲示板との初めてのコンタクトでした。
(これより以下に載せる画像は、Wayback Machineを使って表示させたウェブページをスクショしたものです)
TOKIYAさんのウェブサイト、アルマイーターの2003年頃のトップページ
まだ両方のお絵かき掲示板ともそこまで賑わっていない頃で、TOKIYAさん、KENさんがお互いのお絵かき掲示板に描きあい、コメントし合っていたのを覚えています。
TOKIYAさんは当時、高校生だったと思います。自分の印象では、TOKIYAさんは若いのに上手すぎる人、絵の神童のようなイメージがありましたし、ウェブサイトもとても凝っていました(はじめ見たときは、トップページが白黒の鉛筆画だったような記憶があり、それもとても新鮮に思えました)。
TOKIYAさんよりも世代が上で、TOKIYAさんも強い影響を受けていたと思われるのが川洋さんで、皆からも一目置かれていました。おそらく当時からゲーム会社でお仕事されていたのかな、と思いますが…(分かりません)。
2002年頃の川洋さんのサイトのトップページ
リンク文化
次第にスキルアッパーが盛り上がってきて、いろいろな絵描きが集まってきました。集まっていた絵描きそれぞれが自分のウェブサイトを持っていることも多く(ない人もいましたが)、それらを周回するのが日課でした。当時は「リンク」という文化があり、リンクページに仲の良い人のウェブサイトをリンクし、バナーを貼ったりしていました。日々リンクは増えていき、交流が盛んになっていきました。
二艘木君のウェブサイトのリンクページ。ちなみに二艘木君は当時、自由(あくび)という名前でした。
qpウェブサイト
ちなみに自分自身のウェブサイトを作ったのは、2003年の4月1日でした。当初ははてなダイアリーも設置していなくて、簡単な紹介と、掲示板と、あとアナログで描いた絵のページがあったような気がします。あとお決まりのリンクページですね。自分は、好きな人をリンクするのではなく、掲示板(テキストのみの掲示板)に書き込んでくれた人がウェブサイトを持っていた場合にだけ、リンクを貼っていくという独自のルールを設定していました。はてなダイアリーは、ウェブサイトを作って1ヶ月後くらいに作成し、毎日のように短めの文章を書いたり、たまに写真を載せたりしていました。
2003年開設当初の自分のウェブサイトのトップページ(木のようなものをクリックすることで、それぞれのページに飛ぶことができました)
自分のウェブサイトのリンクページ。当時の自分の交流をうかがうことができます。
ラレコさんとジュゴンオアダイ
さて、スキルアッパーが盛り上がっていた頃に登場したのがラレコさんで、ラレコさんは圧倒的な存在感がありました。絵の上手さ、言動の面白さ、なんというか場を制するカリスマ感がありました。そして、スキルアッパー登場時は自分のウェブサイトを持っていなかったラレコさんですが、あるときウェブサイトを作りました。それがウェブテントという名前のサイトで、ウェブテントにあるお絵かき掲示板がジュゴンオアダイでした。
(いま思ったのですが、そもそも自分のウェブサイトに名前を付け、お絵かき掲示板にもオリジナルの名前を付ける文化は、当時は当たり前でしたが、今となっては失われてしまったものですね…この名前をつけるという文化自体に郷愁を覚えます。と、話がすぐ脱線してしまいますが…)
ウェブテントのトップページ。茨城(ラレコさんが住んでいる)から発信している、というFLASHアニメ。音楽付き。
あるとき、寺田克也さんがスキルアッパーに突然降臨し、本物かどうかも含めて、騒然としたことがあったのですが、その寺田克也さんにアピールするために作られたのがウェブテント、だったような気がします(…と言っても、いまやSNSで有名人とコミュニケーションするのが当たり前になっているので、当時の衝撃は分かりにくいかもしれませんが)。
とにかく、お絵かき掲示板としては後発だったジュゴンオアダイですが、すぐにスキルアッパーと二分するほどの人気のお絵かき掲示板になっていきます。絵の投稿の多さとコメントのやり取りの早さ…そしてある意味で内輪的とも言えるコミュニティが形成されていきました。とくに伊藤さん、cheさん、そしてラレコさん3人の絵とコメントの応酬、かけ合いは面白かった。ときどき小学生が描いたような絵が投稿されると、容赦のないコメントが投げられました。また絵だけでなく、ゲームが投稿されることもありました(確か、やまぎんさん制作のゲーム)。
ジュゴンオアダイとスキルアッパーに来るメンバーは、かなりの部分重なっていましたが、それぞれの管理人のキャラクターの違いもあり、雰囲気はかなり違っていました。
ウェブテントのコメント欄の景色(ここにも出てくるcheさんが現在どうしてるのか個人的に気になっています…)
祭
二つのお絵かき掲示板では、ときどき祭が開かれ、同じテーマに沿って絵が描かれたり、合作が行われたりしました。一つの絵を30人くらいで描いた祭もありました。
対戦コラボ祭
背景レイヤーの上に、別々の2人がキャラクターを描き合いました。
左はだれが描いたのかちょっと分かりませんが、右はラレコさんですね
左がcheさん、右は自分のキャラクターほどけ犬
TOKIYAさんとラレコさん、夢の対戦
ナイキ祭
ナイキのロゴマークをテーマとした祭。フォルダのアイコンのみ載せます。
アイコンだけでは分かりませんが、GIFアニメも多く投稿されました。
TOKIYAさん誕生祭?
たしかTOKIYAさんの誕生日を祝う祭だったように思いますが…やや記憶があいまいです。1枚の絵を複数人で描いていくタイプの祭です。
まだまだ途中の状態です。全部埋まったものは保存していませんでした。ちなみに自分の描いた絵もこの中にあります。
リラックスさん祭
はじめに自分が投稿したリラックスしたキャラクター(たぶん右上端の絵)を見て、他の人も同じキャラを描いて投稿していきました。編みものでこのキャラを作ってくれた方もいました。
ジュゴンオアダイで生まれたコラボ絵
祭とは呼べないかもしれませんが、ジュゴンオアダイで行われた、複数人が参加して1枚の絵を作り上げていったものです。掲示板の自由な雰囲気が出ていると思います。
ジュゴンオアダイに時々来ていた外国人のMATTを助けようとしています(どうしてこんな絵をみんなで描くことになったのかは忘れましたが…)
こういう祭を見ても分かるように、お絵かき掲示板に投稿される絵は、見てもらいたい対象がはっきりと分かった上での、コミュニケーションのための絵、という側面がありました。TOKIYAさんのスキルアッパーに投稿するなら、TOKIYAさんがそれを見る、という緊張感をともなって投稿することになるし、他の集まっている人たちの絵の内容やクオリティ、コメント等から作り出される「空気」の中で投稿しなければなりません。
TOKIYAさんが力作を投稿した後に他の人が投稿するのは、かなり勇気が必要だったと思います。また、掲示板によっては、コメントすることによって絵が一番上に来る仕様になっていて、コメントされなければ後ろの方に下がっていきます。活発に動くお絵かき掲示板の空気は、どんどん変化していきました。
また、2003年の末にオフ会があり、自分はまだ関西にいたので参加できず、悔しい思いをした記憶があります(確か、TOKIYAさんのお父さんの作場知生さんの個展に合わせたものだった気がします)。
写真を発掘しました
ラレコさんのFLASHアニメと脱線話
ラレコさんは、お絵かき掲示板への絵の投稿と並行して、ウェブサイトのトップページに載せるためにFLASHアニメを制作していきます。「カレーパンの歌」から始まり「やわらか戦車」に至るFLASHアニメは圧倒的な人気を誇り(今でいうとバズって)、お絵かき掲示板というコミュニティの外にまで広がり、ネット全体でも流行しました。ラレコさんはそれ以降、FLASHを使用するアニメ作家として地位を確立し、NHKの「トップランナー」に出演したり、「日本のメディア芸術100選」のエンターテイメント部門1位に選ばれたりしつつ、現在でもプロとしてコンスタントにアニメ制作をされています。
ちなみに個人的なエピソードとしては、当時、ラレコさんとカオリさんという絵を描いている女の人と3人で、よくメッセンジャーで話していたんですが、あるときラレコさんから「おれたち付き合うことになったんだ」と報告を受けたことがあります…。よく話していた3人の内の2人が付き合うことになったと聞いて、少し寂しい気がしたことを覚えています。
それからお二人は結婚されて(結婚式だか二次会だかにも行った気がします)、お子さんも生まれ今も幸せに暮らしていると思いますが、これを書いていて、忘れていたそんなことも思い出してしまいました…(ほんとに脱線が多い)。
ジュゴンオアダイやスキルアッパーに集まった人たちは、基本的にはイラストレーター志望、もしくはすでにプロとしてやっている人、それから単純にお絵かきが好きな人が多かったかと思います。上手い人もそうでない人も色々でしたが、プロ志望の人は、後々プロになった人も多いと思いますし、一度ゲーム会社内でグラフィックの仕事に就き、その後フリーとしてイラストレーターや漫画家などになった人も多いと思います。
奥野さん
お絵かき掲示板には個性豊かな面々が出入りしていましたが、自分がとくに強烈に記憶に残っているのは、奥野さんという方でした。一言でいうと、狂気を感じる絵を描かれていて、奥野さんのお絵かき掲示板が凄いということでジュゴンオアダイの中で話題になり、その奥野さんがジュゴンオアダイに降臨した(絵が投稿された)時は大騒ぎになりました。ちなみに自分もファンになり、当時の絵を見ると、奥野さんの影響をもろに受けていたと分かります。しかし、奥野さんはごく短い期間だけ活動し、お絵かき掲示板もすぐに消されてしまったように記憶しています。なんとなく消されそうだなと思い、自分は奥野さんの絵を保存しておいたので、今でもたくさんのデータを持っていますが…。
奥野さんフォルダの絵の一部
自分のお絵かき掲示板絵
自分のお絵かき掲示板で描いた絵を載せていなかったので、この辺りでいくつか載せておきます。ただ、いま見返すと、正直良いと思えるものはほとんどなく、あまり載せたくないくらいですね…(まあ載せますが)。後の作風との違いを楽しんでください、という感じです。
上京とザ・チョイス
さて、スキルアッパーとジュゴンオアダイへの投稿は、自分が東京へ出てきたのを境に出来なくなってしまいます(ネットをつなげなかったので)。上京したのは、2004年10月1日でした。
自分は東京へ出てきてから、お絵かき掲示板で培った感覚も持ちつつ、アナログで絵を制作します。ネットが使えなくなったので、アナログで描くしかなかったのです(ネットをしすぎていたことを自覚していたので、それを改善するためあえてつなぎませんでした)。
紙に絵を描き、それを切ったり貼ったりし、コラージュで絵を作りました(その部分はマティスの貼り絵の影響でした)。そのコラージュの絵を、自分が東京へ出てきた記念で開いてくれた、お絵かき掲示板仲間のオフ会で見てもらったことを覚えています(調べると2004年の10月31日ですね)。二艘木君、サトウコウジさん、アニュウリズムさんがいたと思います…他にもいたような気もしますが(やぎともこさんだったかな)。
そのときに見せた絵を、「イラストレーション」誌のザ・チョイスというコンペに応募したら、運良く入選しました。その後も1年間ザ・チョイスに出し続け(隔月刊だったので6回)、その内の半分が入選し、年度賞の大賞にも選ばれました(自慢みたいになるのであんまり書きたくないですが、まあ…)。
「イラストレーション」誌、ザ・チョイス年度賞発表。2006年3月号。
大賞は頂いたものの、イラストレーター向きの作風ではなかったですし、それを修正していこうという気持ちもあまりなかったので、いまいちイラストレーターとしては活発に仕事をしたとは言えないです…。
「真夜中」など
そうこうしているうちに、さすがにネットもつなぎ、アナログの絵と並行してお絵かき掲示板での制作もまたするようになりました(ずっと制作するというよりも、ある時期にまとめて集中的に描くという感じでしたが)。
そして、自分が初めてイラストレーションとしてお絵かき掲示板の絵を発表したのは、雑誌「真夜中」3号(リトルモア 2008年)の「ポートレイト」という特集だったかと思います。
その後、「真夜中」11号(2010年)では表紙と特集ページでもお絵かき掲示板の絵が掲載されます。
音楽特集だったので、ギターを弾いている人を描きました。デザイナーの服部一成さんのリクエストだったと思います。
お絵かき掲示板の絵が仕事になったものとしては、ほかに、フレッドペリーの店舗ディスプレイがあります。お店のディスプレイにお絵かき掲示板の絵が使われたことは、自分以外ではおそらく他にないと思うので、ある意味画期的だと言える、かもしれません…。
上京する前、お絵かき掲示板の自分の絵はいまいちスタイルが一貫していませんでしたが、この辺の時期にわりと確立できてきた気がします。コピーペースト機能を多用したパターン性のある描き方、平面的で装飾的(図形やマークへの愛着)、強い色への志向等…(ちなみにコピーペーストはフォトショップ等のツールでも出来るのですが、お絵かき掲示板のコピーペーストの方が自分は遥かに使いやすかったです)。また、あえてバグ的な表現を探していくこともありました。
この辺りの時期に描いたお絵かき掲示板の絵を、他にいくつか載せておきます。
お絵かき掲示板の衰退
2010年に入る前には、お絵かき掲示板はすっかり存在感がなくなり、使う人も激減しました。2007年にピクシブが生まれ、ネット上の、絵によるコミュニケーションはピクシブが主流になっていきます。
ただ、お絵かき掲示板とピクシブは、そこで起こるコミュニケーションの質がかなり違いました(ちなみにピクシブの前にはミクシィが出来て、そこでも少しコミュニケーションの感触が変わった気がします)。
単純に、絵のコミュニケーションがピクシブ主体になることで、以前にはあった熱みたいなものが失われてしまった気がします。これは、自分だけの感覚ではなく、当時まわりの人も口にしていたことでした。
この時期に描いていた、少し傾向の違うシリーズを載せます。お絵かき掲示板独自のテクスチャを重ねることで、予想外のテクスチャが生まれることがあり、それを生かした抽象のシリーズです。
城戸熊太郎
さて、二艘木君もまた、お絵かき掲示板の流行が去った後にも関わらずお絵かき掲示板を使う珍しい絵描きの一人でしたが、自分の発案で、ザ・チョイスに応募するため二人でユニットを組みます。それが「城戸熊太郎」でした(名前は、自分が当時読んでいた町田康の小説「告白」からきています)。
応募したザ・チョイスの審査員は服部一成さんでしたが、入選はしませんでした。その後、会田誠さんの審査の時も応募しましたが、そちらも選ばれませんでした。
どちらも会田誠さんのザ・チョイスに応募した絵。背景は自分、前のキャラが二艘木君の絵で構成。
服部一成さんのザ・チョイスにはアナログの合作を出品しました。
城戸熊太郎の活動としては、ザ・チョイスに応募するだけでなく、「こなごな」という個展をユニットとして開催したり(ソーンツリー ギャラリー 2011年)、二艘木洋行・qp・城戸熊太郎の三人展として「マゼンタ色の友だち」という展覧会を行なったりしました(waitingroom 2012年)。
これらの展示での新しい試みとしては、二人のお絵かき掲示板の合作をモニターに表示させ、そのモニターをカメラで撮影し、写真プリントとして展示したことです。自分としては、発光しているモニター、また荒いドットも含めて作品にしたいという考えから生まれた発想でした。
写真にすることで、トリミングや、絵を拡大して見る(細部に注目する)という考えも入ってきます。
当時、あまり反応はなかったような気がしますが、今回あらためて見たらけっこう面白い試みだと思いました。
データとしてはフラットな面でも、写真に撮ることで微妙に陰影のニュアンスが付くのも面白い効果。
この頃(2011年)、「お絵かき掲示板」展という展覧会をするべく、二艘木君、gnckさん、TOKIYAさんらと企画を考えました。結果的に展覧会は頓挫しましたが、後の活動につながっていく部分はありました。また、それまで面識がなかったのですが、gnckさんに初めて連絡をしたのはこの時でした。
私たちは夜です
その後、京都で「私たちは夜です」(Black bird White bird 2012年)という個展を開催しました。この個展は、すべてお絵かき掲示板の絵で構成しました。
モノクロ変換したお絵かき掲示板の絵をレーザープリントで出力。版画に使われるような紙を使用し、ぱっと見、版画のように見えることを意図しました。
モノクロの絵柄が印刷された本のページの上に、お絵かき掲示板の絵をプリントした作品。
写真としてのお絵かき掲示板作品。かなり部分に寄って撮影しているので、ドットがはっきりと分かるようになっています。
二艘木君も京都まで来てくれました。
じつはこの個展「私たちは夜です」が、直近で自分の最後の個展になっています。もう7年も個展をしていないことになりますね…。
グループ展での展示と船の絵、最新作まで
その後、「であ、しゅとぅるむ」展(市民ギャラリー矢田 2013年)、「パープルーム大学」展(山下ビル 2014年)、「パープルーム大学Ⅱ」展(熊本市現代美術館 GⅢ 2014年)、「パープルーム大学物語」展(ARATANIURANO 2015年)でもお絵かき掲示板の絵が展示に使われました。
「であ、しゅとぅるむ」展 梅津さんとKOURYOUさんの後ろ姿も見えます。姿は隠れて見えませんが、左の椅子に座っているのがこの展覧会の企画の筒井宏樹さん(現在は鳥取大学で先生をしています)。
「パープルーム大学」展
その他、船の絵のシリーズ(2014年)。
福留麻里さんのダンス公演『川に教わる』のDM(2014年)。
船の絵のシリーズ(2019年)。
フンデルトヴァッサーオマージュの渦巻きの船の絵
最近描いたお絵かき掲示板の絵。
フンデルトヴァッサーの言葉「自然の中に唯一存在しないものが直線である」を意識し、直線ツールを使わずに描きました。
いまのところの最新作。お絵かき掲示板+フォトショップで描きました。
この絵も、直線ツールや図形ツールは使っていません。
終わりに
ということで、ようやく現在まで辿ることができました。
他にもたくさんお絵かき掲示板の絵はありますが、すでにかなりの分量になってしまいましたし、お絵かき掲示板との出会いから現在にいたるまで、大ざっぱに記述することはできたのではないかと思います。
ちなみに自分のウェブサイトは、それなりに長く続けたと思いますが、2017年の終わり頃になくなってしまいました。
TOKIYAさんのアルマイーターもなくなってしまい、スキルアッパーもありませんが、TOKIYAさん個人のサイトはあり、お仕事の絵などを見ることができます。
ラレコさんのウェブテントとジュゴンオアダイは、なくなってしまいました。
やはりSNSが力を持っていることもあり、また他の理由もあるかと思いますが、イラストや絵などを載せるための個人サイトは、以前に比べると明らかに少なくなっています。少し寂しい気もしますが、時代の流れなので仕方ありませんね…。
イラストサイトを日々巡回するという楽しみは、この世界から消えてしまったのかもしれません。
ただ、こうやって振り返ることで、自分でもすっかり忘れていたことを思い出したり、整理することができました。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。