最近はほんとうに視力が低下してまいりました。もうなにもかもが、ぼやけてしまってはっきりしません。自分の手などは、目の前にかざしたりすることでなんとかはっきり見えもするのですが、鏡に映した自分の顔でさえぼやけてしまって、間抜けのように鏡に近付かなくては鏡本来の効果を発揮しない有り様でございます。まったくもうなんて難儀なことでしょう。

 さて、世の中では、本来であるならばマイナスイメージの強い概念を、違う見方をして良い意味に転化させるという方法が一時期からはやっております。おそらくそれは、赤瀬川源平氏の「老人力」からで、その後「不安力」だとか「優柔不断力」などと続いたんではないでしょうか。
 ではそこで、同じように視力が低いことの効用はなにかあるのか考えてみようということなのです。ぜひ、この低い視力を生かして自己改革を行ない、もしなんなら世界平和のために使っても良いとさえ考えている次第なんです。ああ。なんて心の広いサイト管理者。涙が出てまいります。フレーフレー自分。
 視力の悪さをどのように役立てるのか、視力が良いのより悪い方が得意なこととはなんなのか。さて、では実際に考えてみなくてはなりません。視界がぼやけているとなにかよいことがあるのか。
 ひとつは、よく見えないために、本来見て、嫌な気分のするものを見ないですむ、ということがあります。たとえば汚物。たとえば嫌な人の顔。たとえば気持ちの悪い虫。たとえば自分の顔。そういうものを、なんだかよく分からないぼやけたものとして、心にさざ波を立てることなく処理することができる。これが、ひとつ「視力の悪さ力」として挙げることができましょう。
 しかし、「視力の悪さ力」はそれだけです。なんとあっけない。馬鹿にしてるのか。いや、してません。他には思い付かないのです。まったくこれが、力として認定されてよいものなのか。実際考えてみると、圧倒的に、視力の良い方が有利だし、優っているし、役に立つことが多いのです。これでは視力の悪い人の負け惜しみです。視力の良い人に向かって「視力の悪さ力」についてこんこんと語っても、「ふーん」と軽くあしらわれることになるのがオチです。だって、視力良い方がいいんだもの。
 そういうわけで、自分もほんとうは、視力を上げて、いろんな美しいものをはっきりと目に焼きつけたいし、くだらない御託を並べて悦に入っている場合ではないのです。どうやって視力の悪さで世界平和を達成するのか。馬鹿にするな。寝言も休み休み言え、というわけです。ああほんとうに馬鹿でした。自分は馬鹿でした。実際確認もとりました。ハンコもとりました。馬鹿でした。いい加減にしろ自分。