可能性の魔力

ドストエフスキーの「賭博者」という小説の中で、ギャンブル中毒の登場人物が「勝つ可能性があるのに、どうしてそれをしないでおれようか」というようなことを言うくだりがあるらしい。らしい、と言ったのは、自分がその小説を読んだわけではなく、たしか村上春樹の小説(「ノルウェイの森」だったか)の中で、そのようなことが書かれていたからだ。とにかく、自分はこの言葉になにか感じるものがあり、以来おりに触れてその言葉について考える機会を持った。
ところで、自分は最近、なまじ時間があるせいで、インターネットにかなりの時間をさいてしまっている。インターネット中毒といってもいいかもしれない。朝起きたらパソコンを起動させ、随分あっちへ行ったりこっちへ行ったりしたあげく、やめようやめようと思いながらも、まだおもしろいところはないか、まだ見たいものはないか、と歩きまわる。あるいは、さっき見たところが、少し時間が経ったので新しく更新しているのではないか、さっき掲示板に書いたコメントについての返事がきているのではないか、と。そんなことをしていると、2時間でも3時間でもあっという間に過ぎてしまう。インターネットというのは、テレビと同じように、一度始めてしまうとなかなかやめるのが難しいものであるように思う。それは、ギャンブルと同じように、なにか可能性というものが、ずっとひそみ続けているものだからではないだろうか。おもしろいもの、自分が得たいと思っているものが、手に入る可能性がある。時間が経てば状況が変わり、おもしろいものが新たに登場するかもしれない。それはテレビやラジオも同じだけれど、チャンネル数の多さが圧倒的に違うし、リアルタイムに状況が変化する魅力も大きい。中毒にもいろいろあるが、そういう意味で、たとえばお酒や煙草、麻薬などの中毒とは違う。麻薬は、可能性を求めてするわけではなく、おなじみの興奮や陶酔を得るためにするものだ。
と、ここまで書いてきて、なんだか書いていることが間違っている気がしてきた。インターネットにはいろいろな要素があるので、自分の言っているように、インターネットの中毒性を限定してしまうのは間違いなのではないのか。おなじみの安らぎを求めてインターネットをする人だっているだろう。その部分を求めている人が中毒になるかどうかは分からないが、もしかしたらいるかもしれない。ただ、ひとつ言えるのは、他の人は知らないが、自分の場合は、その、インターネットの可能性の魔力とも言うべきものに捕らわれているということなのです。自分のまわりの世界が、自分の知らないうちに動いていて、それを知る術があり、それを知る時間があるなら、どうにもそれ(インターネット)をやってしまうのです。もちろん、人生、インターネットばかりしているわけにもいかないので、最近はある方法を考案して、一日インターネット一回という規則を、なんとか守っています。これを、二日に1度、三日に一度とだんだんのばしていくことができれば、もっと良いでしょう。



…とか言いつつ、やってしまったインターネット。今日二回目。そしてこの情報、iMac G5。こういう情報をいち早く知ることができるから、やめられないんだなあ。しかし、このデザイン…。モニター本体一体型パソコンの必要性が感じられない。ノート型の方がいいじゃない、これだったら。折りたためるし。将来的にはiMac(モニター本体一体型Mac)はなくなると思う。