昨日のことだけれど、チェルフィッチュ岡田利規)の舞台、「目的地」をテレビで放送していたので、見た。ずっと気になる存在だったのだけれど、いままで見る機会がなく、見れて良かった。
心の底から感動したということはないけれど、おもしろいのは間違いない。個人的には、言語的な表現(いわゆる超リアル日本語?)よりも、身体的な表現がおもしろく、新鮮に感じた。
チェルフィッチュ岡田利規)の舞台では(といってもこの一作しか見ていないので、ほかの作品がどうなっているのかは知らないけれど)、役者はつねにセリフをだらしなく長々としゃべり、しゃべりながらせわしなく体を動かしている。その体の動きは、手をぶらぶらさせるものだったり、ちょっとした体操のようなものだったり、日常的な会話で人間がやっている動きを大袈裟にしたもの、あるいは、よく分からない動き。もし演技における、普通の意味でのリアリティーを獲得するためなら、そういう体の動きは少し入れるくらいでちょうどいいのだろうけれど、チェルフィッチュ岡田利規)の舞台では、その動きを普通よりもかなりオーバーにやっている。明らかに不自然で、意味もない。けれど、意味がないからこそおもしろさを感じる。言葉の面では、少なくとも身体表現よりは、その冗長なところに意味がある。演劇としては特異だけれど、現実の場面においては特異ではない。「そういう人いそう」というようなリアリティーがある。
舞台の放送が終わって岡田利規が対談していたのだけれど、そこで自分が一番興味深かった話は、ある特殊なスタイルを作ったときに、そのスタイルをその先どうしていくか、ということ。もし新しい作品を書くというときに、自分の表現したいテーマとそのスタイルが合わなかったときに、どうするのか。
特殊なスタイルということは、それだけ表現が限られてくると思う。このことは、自分にもよく分かる。自分も、ある程度はスタイルに自覚的で、こだわりもあるから。最近は横方向の顔と人体を使って絵を作る、構成するということをやっていて、それだけでひとつのスタイルだけれど、しかしそのスタイルだと絶対に表現できないことも出てきてしまう。だいたい、横方向がどうとかいうよりも、コラージュという表現を選べば、その時点で、かなりいろんなものを切り捨てることになる。それは別に、いいと言えばいいのだけれど…。ただ、ときどき自分は、切り捨てているもの、自分のスタイルでは表現しようがないもののことを考えるときがある。ときどき、それが気になる。
それはもしかしたら、自分の、絵にたいする思考の弱さかもしれない。つまり、ほんとうに自信があるなら、それが絶対だと思っているなら、そんなことは考えないだろうから。