自分の絵の、現在のコラージュの方法は、ある、だれにでも分かるなにか…たとえば椅子、たとえば人間…を使って、おもしろいかたちや関係をつくる、というものだと思う。そして、そういう絵をつくるとき、その絵は「外」があることを前提にしていない。違う言い方をすると、作品は、作品の中だけで完結している(なにか、作品以外のものを必要としていない)。作品は、自分のつくった椅子と人間「だけしか」使わない(鑑賞者の持っている「であろう」なにか社会的な知識などを頼らない)。自分が絵をつくるときに、多くの場合、絵の部分が外に切れていない(外へ続いていない)のは、たぶんそのへんの、自分の「作品内で作品を完結させたい」という資質(趣味?)の造形面でのあらわれなのかもしれない(外に切れていると、感覚的に「気持ち悪い」のだ。なぜかは知らないけど…それが自分の資質なのだろう)。
自分は今回、(出来不出来を自分で判断するのは難しいけれど…)小説をひとつ書いた。そしてそれもやはり、絵を描くとき、コラージュをつくるときと同じところから書かれているように思う。つまり、上に書いたものと同じ言い方をすると、小説の中で、人間と椅子を使ってなにかおもしろいかたちや関係を模索する、というものだ。そしてそれは、やはり絵と同じように、「外」を必要とせず、作品内で完結している。自分の書く小説には「外」がない。時間的な「外」も空間的な「外」もない。ある限定された小説空間、小説時間の中で繰り広げられるのが自分の小説だと思う。時代的にも地域的にも、背景を描くことをしない。それは、黒いバックにコラージュをはりつけていくようなものだ。
だから、そういう意味で、文学においても美術においても、自分がやろうとしていることは同じだし、そのやり方も同じに見える。あるいは自分は、一言で言うと、閉じているのかもしれない。閉じているというと、イメージは悪いけれど、そうではないと思う。自分がやるべきは、どういう閉じた空間…つまり「箱」をつくるのか、ということじゃないだろうか。閉じることによって生まれる可能性もある。あるいは単純に自分は、閉じることしかできない。閉じるとは、社会的なものを信用しない心の状態だろうか。ここらへんは分からないけど。
そういえば、奇しくも(?)いまのサイトのトップページは、箱(ゴミ箱)。立体作品でも箱をモチーフにしたものがある(その場合、「見えない箱」の中に「見える箱」をつくっている、と言えるだろうか)。あと、自分が勝手に、自分の作品のいちばんの理解者だと思っているラレさんに、自分のことを「箱の中に住んでいる」ってむかし(コラージュなんかを作るよりもずっと前)よく言われてたのを思い出した。いまになって、それがこういうことだったのかなと気付いた。自分のことは自分では分からない。作品をつくって、それについて考えることで、少しずつ分かるのかもしれない。
ということで、今日はこのサイトをはじめて3周年の日でした。なにかまじめな話でしたが、これからもまじめになったり、またふざけたりしようかと思います。