労働が終わったあと、きゅうに、桜上水にあるギャラリーへ行こうと思い立ち、自転車で行った。写真の展示を見て、それから帰ろうと、神田川沿いに自転車を走らせた。夕方から夜のあいだの時間帯で、川の上をコウモリがたくさん飛んでいた。めずらしいのでデジカメでビデオ撮影した。わりとしつこく、何回も位置を変えて撮った。そのせいで足を何カ所も蚊にさされ、かゆかった。
もう暗くなっていた。とくに、このあたりは木々が多く、余計に暗かった。静かで、ひとけも少なかった。


川沿いに自転車を走らせていると、ふと、男の人に呼び止められた。(これを書いているいま、はっきりと記憶にはないが)「人が…」みたいなことを言われた。そちらを見ると、川に橋がかかっていて、その橋の下になにか見えた。人がぶらさがっていた。橋の手すりから紐が落ちていて、その先に、首つりをした人がシルエットの形で見えた。一瞬、息を飲んだ。見てはいけないものを見た気がした。そして、なぜか冷静に、小さいから子供だろうかと思った。子供が首つりするだろうか、とも思った。しかし、そう思うか思わないかのうちに、そのだれかが声を出すのを聞いた。うめき声のようなものを。苦しそうな声を。まだ、生きている…。
おそるおそる、橋を歩いてそばに近よった。近くで見ると、大人の男の人だと分かった。それなりに歳をとっている(暗いからはっきり分からないけど40代以上…)。そして、うめき声とともになにか声を出している。「ゆっくりおろしてくれ」と聞こえた。必死に紐を持って、なんとか持ちこたえようとしている。顔が青黒く見えた。自分の思考は、どういうふうに動いていいのか分からず、混乱していた。一刻を争う事態なのは間違いない。はやくしないと、この人は死んでしまう。
混乱しながら、自分に声をかけた男の人を見ると、「警察に」と言った。「かけました?」と聞くと、携帯電話を持っていないと言う。
自分が110番した。携帯電話を操作しながら、「110番でいいんですよね?」と確認してしまった(もしかしたら救急車?とも思ったので…)。すぐにつながり、「事故ですか事件ですか?」と聞かれる。一瞬、どう答えたらいいのか分からず、腹立たしい気持ちになった。一刻を争う事態なのに、そんなことはどうでもいい、と思いながら、早口に状況を説明した。神田川沿いの○○橋に、人が首つりをして、まだ生きていて、うなっています。はやく来てください、とにかく!
電話を切り、ぶら下がっている男の人を見た。苦しそうに、しかし手は紐をつかんで、持ちこたえている。いつの間にか、なにか異変に気づいたのか、近所の人がひとりふたり、やってきた。しかしなんだか、緊急事態とは思えないような、不思議な普通さがあった。だれも叫んだりしていず、静観している雰囲気があった。自分は、あいかわらず混乱と、はやく助けなくては、という切迫した気持ちだった。


ハサミで切ればいい、とだれかが言い、新しく来た人に自分が、ハサミ持ってきてください!と言った。しばらくして(長い時間に思えた)、だれかがハサミを持ってきた。切ってください!と言った。しかし、いきなり紐を切ると、強く川に落ち、危ないかもしれない、と思った。さっき「ゆっくりおろして」と言った言葉が、頭に残っていたせいもあるかもしれない。落下をゆるやかにするために、自分が紐をつかむことにした。自分の手のひらがこすれて、どうにかなってしまうかもしれないとも思ったが、それどころではなかった。とにかく時間を争った。そして、ハサミで紐を切った。
手のひらに一瞬、痛みが走り、ぶらさがっていた男の人は落ちた。紐が(青い、ささくれだった紐だった)自分の手を擦りながら通過していった。見ると、指の皮などがめくれていた。えぐれたようになっているところもあり、(自分でいうのもおかしいが)痛々しかった。
しかしとにかく、少しして、男の人がはしごを上ってきた。背中が泥だらけなのが、うす暗い中でも見えた。柵を越えてこちらへやってきたその男は、なんだか当たり前のような、普通の感じがあった。表情はゆるんでいた。生きるか死ぬかという事態を乗り越えた表情には、ふさわしくないような気がした。大声で泣き叫んでも、おかしくないはずなのに…。
そして男は、すいません、と謝った。自分は、なんだか呆然として、どういう言葉を出していいのか、さっぱり分からなかった。男の髪の毛(白髪が交じっている)の量が、少し多いような気がした(なぜそんなことを考えたのか…)。そして、たぶんお酒を飲んでいるんだろうな、ということを察知した。呆然としながら、自分は「どうして?」と聞いた。男の人は「こう…上から見ていたらきれいで…すーっと吸い込まれて…」と答えた。しかし答えがへんだと思った。だいたい、その紐はどこで用意したんだ…と思ったが、なにも言葉にならなかった。ただ呆然と黙っていた。
男は、トイレへ行きたいと言い、あっちにありますか?などと言う。それともそっちの茂みのほうでしていいのかな、と言う。自分はどう答えていいのか分からず黙っていると、勝手に歩いていってしまった。ひとり近所の人かだれかが、念のため男に付いていった。少しして、警察官が慌てたようにやってきた。顛末を手短に説明し、あっちのほうへトイレをしに行きました、と言うと、警察官はそちらへ走っていった。取り残された自分たち(3人になっていた)は、手持ち無沙汰にただその場に突っ立っていた。


とにかく無事に済んだという安堵の気持ちがあり、手のひらの、じんじんとした痛みがあった。警察の人を待っている雰囲気だったが、いつまで待たされるのか分からないし、はやく帰りたかった。とりあえず自分の携帯番号と名前を、そこにいたひとりの男の人にメモしてもらって、帰ることにした。かばんのぶらさがったままの自転車へ行き、またがった。怪我をした手のひらをかばいながら、神田川沿いに自転車を走らせた。後ろのほうで、救急車のサイレンが鳴っていた。