1(考えたこと)
普通、なにか欲しいものをもらったときは嬉しい。そして、欲しいものがもらえると知らされたときも嬉しい。しかしその場合(すでにもらえると分かっている場合)、実際にそのものをもらったときはそれほど嬉しくはない。少なくとも、「欲しいものがもらえると知らされたとき」よりは嬉しくない。そのことは科学的にも証明されているようで、自分でも、本当にその通りだなあと思う。
あと、もらえるかどうか分からないとき、たとえば競馬でお金を賭けたときなどは、ずっと精神的な高揚が続くという。競馬が当たるかどうかというよりも、不確実な状況そのものが嬉しいのだそうだ。だとしたら、未来のことが分かるというある種の占い師などは、そういう意味ではあまり喜びはないのかな。そんな人いるのかどうか分からないけど(というか、いないと思うけど)。
不安というのは、未来において、どうなるか分からないという不確実な状況で、悪い方に考えることで生まれる心理を言うのだろうけれど、そもそもそれは、(不意打ちの)喜びが生まれるかもしれないという状態そのものの証明になっているのではないか。
2(昼食中に考えたこと)
客が店に入ったときに、それを知らせるチャイムが鳴るときがあるけれど、あれ、店に入るときも出るときも同じ音なので、店員はチャイムが鳴ると、そのチャイムがはたして客が来たときに鳴っている音なのか、それとも出たときに鳴っている音なのかを、結局のところ目で確認しなければならないわけで、あれ、どうにか客が来たときと出るときの音に変化をつけて、音を聞いただけで客の出入りがどちらなのかすぐさま理解できるという仕組みにできないのだろうか。できたら便利だと思うのだけれど(それとも自分が知らないだけで、もう使われているのかな…?使われてそうかも。でも、今日食べたところはそうではなかった)。
3(メモ)
「それらしさ」を否定することから始めなければいけないはずで、油断すると、いつの間にか「それらしく」なってしまう。
4(天気)
くもり。カラスの声。
5(ゲーム)
そもそもこの日記はゲーム日記として始まっているのに、気がつくと、まったくと言っていいほどゲームの話がなくなっていた…。
というわけで、「ワンダと巨像」。一応、今日エンディングまで見れた。おもしろかった…と同時に、美しかった。と言ってもその美しさは、画面の美しさや余計なものを排除したストイックな精神性だけではなくて、「ゲーム」としての美しさのこと。たんに画面が美しいのと「ゲーム」として美しいのとでは違う。「ワンダと巨像」の場合、自分が思うに、アクションの至福がある、と思った。このゲームは、はっきり言ってプレイヤーにかせられた仕事はふたつだけ。(1)巨像のところまで行き、(2)巨像を倒す。(1)のバリエーションはそれほどなく、このゲームにおいては、(2)のバリエーションで成り立つところが大きいと思う…そしてここに、アクションの至福がある。巨大な敵との、壮絶な戦い…いままで(少なくとも自分は)こんなにダイナミックなアクションゲームを体験したことはないかもしれない。なにしろ、歩きまわり、動きまわり、ときには飛びまわる、圧倒的な生命感の巨像に、それに比べれば相当に小さい主人公が、飛び掛かり、よじ登り、巨像が体を揺らすのに耐え、必死にこらえ、弱点を目指して剣をふるう…それが、いままでにない大きなスケールで描かれる。この迫力。それが体感できる…。もちろん巨像は1体ではなく、あらかじめ16体倒すことが予告されていて、様々な体と特長を持った巨像がいる。自分が個人的に好きなのは、砂漠での戦いで、このステージの巨像は空を飛ぶ。ナウシカに出てくる虫のような形。空を飛んでいるので、どうにかしないと巨像には乗り移れない。そこで、馬に乗りながら弓矢で攻撃し、弱った巨像が羽をおろしたところで、馬で巨像の飛行に並走しながら飛び移る機会をうかがう…スピード感溢れる、さながらアクション映画、しかも砂漠なので砂煙を上げながらの戦闘、舞台は完璧、痺れる…それから羽に乗り移り、体によじのぼり、もちろん巨像は空を飛んでいるので、ここから空の上の戦闘…と、絶妙のタイミングで音楽が変わる(すごくいい演出)、いよいよこれから本格的な戦い、気は休めない、集中しろ、いやがうえにも高まる興奮…。わくわくします。だけど、やっぱりいくら文章で説明しても、実際にプレイしないと伝わらないと思うし、して損はないと思う。若干アクション難しめだけれど。
あと、画面作り、というか色彩について一言。「ICO」もそうでしたが、白色がすごく綺麗。女の子の着ている服の白。なぜこんなに白が綺麗なんだろう。ぼんやり光っているみたい。そう…光っている。白が光っているんですよ。他ではあまり見ない。