おとついから喉が痛く、風邪の引きはじめのよう。それで、うがいをしたりトローチを舐めたりしていたら、なんとか持ちこたえたみたいで、今日はだいぶ良くなってきた。それでも風邪の引きはじめの頭の状態というか、少しぼんやりはしている。


今日、エイモス・チュツオーラというナイジェリアの作家の、「やし酒飲み」という小説を読み終えた。これは、奔放で、力強い小説。日本の現代の小説(というか、日本という状況)から、遠く離れた世界が描かれていて、とても惹かれた。こういう世界があるというだけで、救いになるというか…生きることを軽くするように思う。
以下、少し長くなるけれど、冒頭の部分を引用する。



 わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
 父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。
 父は、わたしにやし酒を飲むことだけしか能のないのに気がついて、わたしのために専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのために毎日やし酒を造ってくれることであった。
 父は、わたしに、九平方マイルのやし園をくれた。そしてそのやし園には五十六万本のやしの木がはえていた。このやし酒造りは、毎朝、150タルのやし酒を採集してきてくれたが、わたしは、午後二時まえにそれをすっかり飲みほしてしまい、そこで、彼はまた出かけて夕方にさらに七十五タル造っておいてくれ、それをわたしは朝まで飲んでいたものだった。そのためわたしの友だちは数え切れないくらいにふくれあがり、朝から深夜おそくまでわたしと一緒に、やし酒を飲んでいたものでした。ところで、十五年間かかさず、このようにやし酒造りは、わたしのためにやし酒を造ってくれたのだが、十五年目に突然父が死んでしまった。父が死んで六カ月たったある日曜の夕方、やし酒造りは、やし酒を造りにやし園へ行った。やし園に着くと、彼は一番高いやしの木に登り、やし酒を採集していたが、そのときふとしたはずみに木から落ち、その怪我がもとでやしの木の根っこで死んでしまった。やし酒を運んでくれるのを待っていたわたしは、いつまで待っても彼が戻ってこないし、今までにこんなに長くわたしを待たせたこともなかったので、友だち二人を呼んでやし園までいっしょについていってもらうことにした。やし園に着いてからやしの木を一本一本見てまわり、そのうちに彼が倒れて死んでいるやしの木の根っこをみつけた。
 彼がそこに死んでいるのを見てまずわたしが最初にしたことは、もよりのやしの木に登り、自分でやし酒を採集し、現場に戻るまえにやし酒を心ゆくまで飲むことだった。それから、やし園までついてきてくれた友だちの助けをかりて、やし酒造りが倒れていたやしの木の根っこに穴を掘って、彼を埋めてお墓をつくり、それからわたしたちは町へ帰った。(エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」)


…たしか、保坂和志の「小説の誕生」でも冒頭が引用されていて、それを読んで自分もこの小説を読んでみようと思ったのだ。感触として、自分の好きなレイナルド・アレナス(「めくるめく世界」)に近いところがあるのでは、という気がして、読んでみたら、もっとさらに即物的というか、たんたんとしたところがある。
上に引用したのは冒頭の2ページで、このあと物語は、死んでしまったやし酒造りを探しに、「死者の町」へいく冒険にうつっていく。この冒険がまた奇想天外というか、めちゃくちゃなところがあって楽しい。しかもこの主人公はなぜかジュジュという魔法のようなものを使うことができて、変身したりして、危機を乗り切っていく。なんでもありで、へんな言い方かもしれないけれど、小説全体にカーニバルのような雰囲気がある。あるいは、アフリカの彫刻や美術、音楽、ダンスと、やっぱりどこか共通するような気がする。平面的で力強く、明るく、ユーモアがにじみ出ている。