恵比寿で杉原(信幸)君の展示、ナディッフアパートで鈴木親とたけむら千夏の写真展、神楽坂ではまぐちさくらこさん、原宿で長井朋子さんの絵を見る。最後に国立新美術館で「光 松本陽子/野口里佳」展。
はまぐちさんと長井さんの絵の展示は、出会ってから、見れるものはかならず見ていると思う(はまぐちさんは京都在住で、関西の展示も多いので、見れないことも多いけど)。自分と同じ世代で、たぶん同じ傾向のある絵で、自分はふたりともとても好きだ。絵のなかを、それぞれ本人の好きなもの、欲しいもので満たしている。すごく単純化して言葉にすると、理想の場所、天国みたいなところをつくるのが、ふたりがしていることかもしれない(まだ生きているのに。あるいは、生きているからこそ)。…それでいて、それぞれ単純な絵ではなく、画面が複雑で、視覚をさまよわせる絵でもある。好きなもので画面を埋めながら、つくりあげながら、同時に壊れること(バランスを崩すこと、拡散すること)への強い欲求も感じさせる。自分とくらべるのもあれだけど、自分はほっておくと、なにかまとめようとしたり、バランスをとろうとしてしまうところがある。それはそれでどうしようもない、生まれもっての性質かもしれないけれど、とにかく自分は、だから、壊れようとしているものに、強いあこがれを持ってしまう。
絵のなかで、ほんとうは、重力だってなくていいし、現実とぜんぜん違うふうに描いてもいいし、構図とかバランスだって崩れていていいはずだけれど、それをできるかどうかというのは、けっこう生まれたときから決まっているんじゃないかと、思ったりする(性格や容姿と同じように)。なにか現実から離れすぎたものを描くときに、気持ち悪いと思うか、別に良いと(いい加減に)思うか、あるいは逆に、そうじゃないと気持ち悪いと思うかどうか…。そのへんはもう、ほとんど決まっていて、変えられないんじゃないだろうか(もちろん、どの絵が良い、というのは、質は別にして、見る者の趣味の問題にすぎない。たとえば、今日見たなかで、国立新美術館の松本陽子の絵は、自分にはほとんど良さが分からなかったけれど、たぶん、それはそれでいいのだろうと思う)。
あと…最後にひとつだけ。いつも思うのは、絵というのは、それを描いた人になんて似ているんだろう、ということ。とくに、はまぐちさんの絵は、はまぐちさんの雰囲気や存在感に、そっくりだ。本人と話していて、なにかとりとめがないし、重力を感じさせないし(独特のの軽さがあるし)、いつもやわらかく笑っている。そうしてなんだか、いつまでも中心にたどりつけない感じがするのだ。