今日はめずらしく、ひさしぶりに会う友達、知人、あるいははじめて会う人など、何人かと話す機会があった。
なにか話すというか、コミュニケーションするのは嬉しいし、楽しい。今日も嬉しかったし、楽しかった。しかし同時に、そういう嬉しさとともに、なんというか、自分の存在を消し去りたいというか、消えたいというか、コミュニケーションしている自分を嫌になってもいる。べつに嫌なことを話しているわけでもないし、そういうことを言われたわけでもない。そのときは楽しい気分になっている、と思う。でもなんというか、孤独になりたい、さびしい状態でいたい、ひとりになりたい。その、相反するふたつの感情を、コミュニケーションしながら、同時に感じている。
いや、正確には、それも違う。そんなことはその場では思っていない。それは、家に帰ってきて、なんやかや、食事をしたりシャワーを浴びたり、テレビを見たりして、それから寝る段になり、布団に入り電気を消し、目をとじて、そして今日のことをぼんやりと思い返したとき、どうやら、そうなのではないか(だれか知人と話していたとき、上記のような複雑な感情になっていたのではないか)、と気がつくのだ。あいまいな、はっきりしない、たしかでないことであるが、暗い中で、そういうふうに考える。あのとき、自分は楽しく話していたが、ほんとうは、心の中では、自分を消したいとも思っていたのではないか、と。
なぜこんなことを書いているのか分からないし(わざわざこれを書くために、寝ようとしていたのにパソコンをつけた)、書くことでどうなるかも分からない。あとで嫌になって削除したくなる類の文章である、ということも分かっている。でもなぜか(寝ようとしていたのにわざわざ起きて書かなければ、と思うくらいに)切迫した気持ちで、これは書いておいたほうがいいと思った。なにかコミュニケーションするというのは、そもそもそういうふうなものなのか、あるいは自分だけなのか、それとも、たまたま今日そんなふうになっていただけなのか。たとえば、だれか知っている人と話すのはいいけれど、ああいう(たくさんの人がいる)場所自体には耐えられない、とか(これが一番近そうか…)。
しかし、どちらにしろ、すべてのことをしているとき、じつは自分のなかでなにが起こっているのかは、よく分からない。多くの場合、振り返って考えてみることもない。たとえ振り返ってみても、ほんとうにそうだったのか定かでない。そもそも言葉で正確に記述できるものでもない。でも、なにか、そのとき感じたこと、考えたことの方向性や、それがどれくらい複雑だったか、くらいは書けるかもしれない。書いたからといって、どうなるものでもない、かもしれないが、ひとつの素朴な記録にはなると思うし、たぶん、なにか書くということ自体に、意味がある。