前回の日記の続きのような、続きでないような、写真についてのこと。


あるハッとしたもの等に出会ってそれを写真に撮っても、それがあまりに現実に見たものとちがってしまうこと、その残念さと、仕方なさをよく思う。
もしかしたらそれは自分の使っているカメラがしょうもないから、かもしれないけど(特に性能が良いという話も聞かない、最新でも高価でもない普通のコンパクトデジカメ)、自分にはそうは思えなくて、やっぱり写真は二次的なものというか。現実の複雑さを記録するのは、構造的に不可能なんだと思う。
現実のあまりの豊かさ、空間の広がり、匂い、風、そして太陽なりなんなりの光を発するものがあるということ、つねに動き続け、揺れ続けているということ。そういう現実の中にハッとするなにかがあらわれる。
そういう現実の全体を、四角形の、平面的な画像にすることはできない。という仕方なさ、さびしさ。
といっても、だから写真は駄目だとかそういう話ではなく、だからこそ、そういう限定的なものだからこその可能性もあるだろうし、現実に見る行為ではありえないような目の拡張もカメラはおこなえる。すごく小さいものを見たり、遠くのものを見たり、撮ったものを拡大したり、時間を止めたり。
ようは違う、根本的に違うんだけど、なんとなく見たものを見たまま記録できるように思っているんだけど、ぜんぜん記録できない。だからなに?って思われるかもしれないけど、自分にはそれが残念に思える。
たぶんそれは、生きていていろんなことがどんどん過ぎ去ったり忘れていったり消えていったりすることへの悲しさとか、苛立ちとか、そういうものから来ているんじゃないか。
記録したいのにぜんぜんできていないことへの。こういうものが残したいわけじゃないのに、あのとき見た景色とぜんぜん違うのに、という。
ほんの一部。あるいはまた別のものとして、見たものを残す道具としてのカメラ。


何年か前に、東中野でたった二日間だけの個展をした。そこへ行くために電車に乗っていて、座席に座っていて、前に女の人が立ったとき、女の人の肌に光があたってとんでもなくきれいだった。それは写真に撮ったとしてもなにか違うものになっただろうけど、その光景を、もうほとんど忘れている。ただとんでもなくきれいだったという印象がかすかに残っているだけだ。
見たもの、見たときにハッとしたもの全体を、残せない。そのどうしようもなさ。
もしかしたらもうそれは写真とはなにも関係のない話なのかもしれない。むしろ写真は「良くやっている」方なのかもしれない(括弧内はほんとうは傍点打ちたい)。問題はそこではなく、自分の、人間の、体験したこと見たこと全体を記憶できないことにあるのかな。だから写真は関係ないかもしれない。
むしろ夢の中の生々しさのほうがなにかを記録している、とも思う。
料理を食べたときの体験を、写真を撮るように記録できないこと。言葉で表現するしかないが、どれだけ言葉を使うのが上手くても正確には記録できないし、原理的にそれを記述することができない。それと同じように見たものをそのまま記録はできない(たぶん。もちろん映像でも)。



またぜんぜん別の話だけれど、春になって植物が生長しだして、自分のよく行く公園(といってもかなり大きい公園だ)の一角の、なんのためにあるのか分からない三角形の形をしたスペースに雑草が伸びてきて、いろいろなかわいい花たちが咲いて、今までそんなに花に興味はなかったのだけれど急にかわいらしく、きれいに思えてきて写真をたくさん撮ったり見つめたりしていたのだけれど(写真集「明るさ」にもその写真がけっこう載っています)、あるとき花を見るのを楽しみにそこへ行くと全部きれいに刈られていた。その場にしゃがみ込みそうになるくらいショックを受けた。
どうやら4月から5月にかけてその公園では、伸びつつある雑草類を、かわいい花たちもいっしょに刈ってしまうらしい。