何日か前の日記で、自分の作品について書いていて、それに対していくつか反応があって…。なんというか、あまり自分や、自分の作品について語らなくてもいいんじゃないかという人もいると思います。自分や、自分の作品について語るというのは、どこかみっともなくて、それはあえて言うことではなく、ただ作品をつくって、それを見せていればいい。それがすべてであると。たしかにそれはそうです。ただ、自分の作品は、自分の作品であると同時に、ひとりの他人の作品でもあって、その他人の作品としての自分の作品を、理性の部分で見る、ということもあるんです。そして、そうしたときに、自分で自分を発見する、そのときの嬉しさというのがあって、それは他人の作品を見たときとある意味で変わらない。つくった本人は、もちろんゼロではないですが、かなりの部分、そんなに意識してつくっていなくて、ただその作品が、どういうふうになったら一番いいのか、おもしろいのか、ということをつくっているときは見つめているにすぎない。それが完成して、しばらく経って考えてみて、やっと、ああ自分はこういうことがしたかったのかな、とすべてではないですが、断片分かるときがある。そしてその分かるということは単純に嬉しい。納得したなら、より嬉しい。それを書いた、書いている。それだけです。
ただ問題はあって、そういうふうに言葉で説明されてしまうと、それで納得してしまい、それで終わりということになる危険もある。言葉で言ってしまうことは危険ですね。ほんとうは、絵は絵であって、小説は小説であって、それをたとえシンプルな(方程式のような)言葉で言いあらわしたとしても、それはイコールで結ばれるものではない。作品の構造や感触やいろいろを単純化することになり、そのことによってたくさんのものが抜け落ちてしまう。それは意識している必要があって、それこそクオリアといいますけど、なにか言葉であらわせない独特な感触、唯一無二の、その作品を見ること、読むこと、体験することによってしか生まれないなにか、それが作品であって、ほんとうは言葉で言いあらわせるものではない。それが大前提ですね。言葉で言えてしまってそれで終わりになってしまうものは、ただそれだけのものっていうことかもしれない。それは恐いですね。