最近読んだもの。リチャード・ブローティガンアメリカの鱒釣り」、レイナルド・アレナスハバナへの旅」、トーベ・ヤンソン「小さなトロールと大きな洪水」「ムーミン谷の彗星」「ムーミン谷の冬」、三並夏平成マシンガンズ」、阿部和重グランド・フィナーレ」。

結局のところ、その作者が、その人生においてなにを引き受けてきたのかがあらわれるか…。技巧などたいしたことではないように思える。セリーヌやアレナスの小説の激しさを、そういう人生を歩んでいない作者に求めることはできないだろう。たった1ページ、いや数行読んだだけで、その作者の人生に触れることができる。



あたしの友だち死んでるのよ。自殺だけど、殺されたようなものでしょ。だって、子供の頃のひどい体験がなかったら、あの子はもっと楽に生きられたはずだから。同じマンションに住んでた子だったの。屋上から飛び降りちゃって死んだのよ。あたし、たまたまそのとき下にいて、見たよ。落ちてきたのすぐ近くだった。あんまり血が出てなかったから、死んでるって思えなかった。でも、即死だった。(阿部和重グランド・フィナーレ」)


今日は死神の現れる日であたしはいつも通りにマシンガンを抱え知人たちを撃った。特にあの愛人をよく撃った。すると死神は珍しく、いや初めてあたしを叱り、殺したいと思う奴を特別に撃ったりするな、みんなと同じだけ撃てと怒った。あたしはその意味がわからなくてなんとなく死神も撃ってしまった。(三並夏平成マシンガンズ」)


「おねがいだから、あの人をもう死んだものとしてあつかうのは、やめてくれないか。それじゃあ、あんまりかわいそうだもの」こう、ムーミントロールはいいました。「死んだら、死んだのよ。このりすは、そのうち土になるでしょ。やがて、そのからだの上に木がはえて、あたらしいりすたちが、そのえだの上ではねまわるわ。それでもあんたは、かなしいことだと思う?」(トーベ・ヤンソンムーミン谷の冬」)


女房が親戚へでかけて数日留守にしたとき、男は三八口径の連発ピストルと大量の弾丸を買い込んだ。それから鼠のいる地下室へ降りて行って、鼠を撃ち始めた。鼠たちは一向に動じない。まるで映画でも見物しているような態度で、ポプコーンのかわりに死んだ仲間を食べ始めた。男は仲間を食うのに余念のない一匹の鼠に近づき、その頭にピストルをつきつけた。鼠は身じろぎもせず、ひたすら食いつづける。撃鉄がカチリと上げられると、鼠は噛むのをちょっとやめて、ちらっと横目で見た。まずピストルを、それから男を。「おいらのかあちゃん若いときにゃ、ディアナ・ダービンみたいに歌ったんよ」とでもいっているような、なんかこう親しみをこめた目つきだった。(リチャード・ブローティガンアメリカの鱒釣り」)


ぼくはそんなやつらとは違うってこともはっきり覚えておいてください、とカルロスは答え、さらに話しつづけた、そんな友だちがいたんです、ぼくみたいな若者でした、悪い人間じゃなかった、でも少しずつ、秘密警察に首を突っ込んでいきました(突っ込まされたんです)。それはここではひとつの利点なんです、ある日、警備中に彼はぼくが交換手をしていたセンターへ電話をかけてきて、こういったんです、電話したのは、ただ君にお別れを言いたかったからだ、さようなら。そして銃声がしました。口にライフルの先を突っ込んでたんです、頭は粉々になりました。ぼくがその銃声を聞いたのは彼が受話器を外していたから。彼はぼくにその銃声を、お別れを聞かせたかったんです。カルロスは黙りこんだあと、あなたは出ていけたからこそ、ここを出た、といった。でも、いまは不可能です。禁じられています。ぼくたちにはもう出口はありません。(レイナルド・アレナス「ハバナへの旅」)


初めて生きている、それだからこそ犠牲に、さし迫った別れに、危険に、まさにほんとうの輝かしい死に対する準備ができているという感覚。これがまさしく生きるということなのだと、どうしてこれまで気づかずにいられたのだろう?そして、自分の場合−たぶんどんな場合も−生きているということは危険のなかに、差し迫った危険のなかにいることなのだと。なぜなら、生きているということは、一時しのぎの部屋で、殺し屋たちが横行する場所で、そして、勝ち誇ったような荒い息づかいをいま探知していそうなありとあらゆるタイプのテープレコーダーがそなえつけられているはずの壁に囲まれて、美しい不吉な異物のなすがままになることなのだから。どうして長いあいだわからなかったのだろう、選択肢は二つしかないということが。ひとつの幸福への冒険が想定する危険か、それとも、隠匿、つまり、意味もなければ輝きもない、ささいな楽しみのなかではなおさらとるにたらない、生命のどんな爆発にも、どんな偉大さにも、だからこそどんな危険にも無縁な、予想された安定をまえにしてのゆるやかな死か。そしてふとイスマエルは、ニューヨークの街で急死するあの麻薬中毒者たちを、無節制な生活を送ってきた人たちとおなじようにある日突然倒れる浮浪者たちを理解し、彼らに感心したのだった。まさしく生きたからこそ爆発する、それにまさる生への称賛の仕方があるだろうか。(レイナルド・アレナスハバナへの旅」)



その言葉は、ただ物語を語るための材料にすぎないのか、それとも、どうしても言わなければいけない切実なものなのか。経済活動など関係なく、書かなくては耐えられなかった、命の危険にさらされながらも書いた、そして、生きることがすなわち書くことであった真の作家の言葉に、どうして、そうでないものの言葉が追いつけよう。