本屋で、ネットの友達のMさんとSさんに偶然会って(自分が立ち読みをしているところに声をかけられて)、その場で立ち話をしたのだけれど、自分の部屋へ来たいというので部屋へ行くことになって、部屋でいろいろ絵を見せたり、また話をしたりした。Mさんはサイトは更新できないけれど、ちゃんと絵は描いているみたいで、そこはなんとなくほっとした。むかし絵を描いていて、いまは描いていないとなると、なぜか、きっと、寂しいものがある気がする。
昨日から島尾敏雄を読んでいる(安西水丸が表紙を担当している、ほるぷ出版というところの「日本の文学」というシリーズ)。島尾敏雄の小説は、イニシャルで人をあらわすことが多い。K平曹、U水兵長、Cさん、Fさんなど。
ネットの日記で人の名前を出すか出さないかは迷うところがある。出すときもあるし、出さないときもある(てきとうに「友達」とか「知り合い」と書くときもある)。どういうときに出して、どういうときに出さないのか。たぶん、単純に、そのときの気分じゃないかな。そもそも友達は少ないんだけれど。
島尾敏雄の小説は、断言はできないけれど、どちらかというと、いわゆる私小説的な色合いが強い。だからイニシャルを使っているのか。それとも、人を記号のように見てしまうところがあるのか。
Mさんは、お腹がすいたからといって、Sさんとふたりでどこかへ行った。自分は少し前に食べていたので、ついていかなかった。