こまばアゴラ劇場で、五反田団の「偉大なる生活の冒険」を観る。おもしろかったし、たくさん笑った。うまいなあと感心するところ、とくにテレビゲームとからめてやりとりするところなど、好きだった。…ただ、おとついチェルフィッチュを観たので、違いをよけいに感じてしまった。問題意識みたいなもの、戦おうとしているものが、ぜんぜん違う。それはそれで良いのだろうけど、今日観た作品は、観終わって、ああ、おもしろかった、といってすませられるようなところがある…気がする。


それで、またチェルフィッチュについて、少し思ったことがあるので、書いてみようと思う。
チェルフィッチュの舞台では、はじまるときにはまず、役者が「では、フリータイムはじめまーす」などと、わざわざ宣言してはじまる。そして、終わるときには「これでフリータイムは終わりです」といって終わる。また、前に学生とともにつくった「ゴーストユース」では、壁に時計がかかっていて、それは現実の時間を示しているのだけれど、わざわざ役者が「いまこの時計は5時40分になってますけど、舞台ではお昼ってことなので、そう思ってくださいね」などといったりする(ややこしい)。ようするに、そこでおこなわれることが演劇(つくりもの)であるということを、あえて客席に知らせようとするのだ。
それからまた、これはいったいどういうことなのか分からなくて、あまり心に止めずにいたことがあって、でもそれが、上に書いたこととつながっているのだと、やっと今日気づいたことがある。なにかというと、おとつい観た「フリータイム」では、舞台の進行中、客席で物音が起こると、役者はそっちをちらりと見たりするのだ。これは、たぶん何度か見られたように思う。普通に考えたら、舞台の進行中には、外(客席)の世界には関知してはいけないはず。物音が聞こえようと咳をするのが聞こえようと、なにもなかったように演技をしなければいけないはず。しかし、演劇がつくりものであるということを、あえて明らかにするような態度なら、外の世界に関知するほうが筋が通っているといえるのだ。
たしかに演劇というものが、うそのことをしているにも関わらず、そのことに目をつぶっておこなわれているのは、不自然といえば不自然だし、時代の感覚からしても違和感を感じるようにも思う。その、フィクションのフィクション性みたいなものを、あえてはっきりさせてしまうことを、自分はおもしろいと思う(それは、趣味の問題もあるだろう)。でも、そういう態度はただの態度として、また別の切実な問題に取り組まないと、たんなる虚しいゲームみたいになってしまうのだろう。もちろん、チェルフィッチュが相手にしていることは、そういうことだけではないと、知っているけれど。