ベケットの「名づけえぬもの」を読んだ。
こんなに、読んでいて手ごたえがないというか、自分が理解できているかどうかが心もとない、という読書体験もなかった。いま自分が読んでいることがなんなのか、ほとんど手がかりがないまま進む。主人公らしき人物が、ただ独白しているだけ、思考が怒涛のように流れていくだけ(長い小説の、はじめから終わりまで、まったくひとつも改行がない)。
その人物がどういう人物なのかは、ほとんど分からない。その人物自身も、自分がだれなのか分かっていず、えんえんと探している。半分くらいきたところで、やっと、その思考する主体、主人公らしき人物が、どこか分からないけれど、手も足もなくして、壺に入れられている、ということだけが分かってくる。その壺に入った人物は、食堂の前にいて、その食堂のおかみに好かれているらしい、ということが分かる。しかし、後ほどその人物は彼ではないようなことがいわれ、結局主体がだれなのか分からなくなる。ほかの人物が出てきたり、なにか主人公と交渉があったりすることはなく、えんえんと、事実であるのかもよく分からない独白みたいなものが続く。徹底して、現実空間みたいなもの、あるいは現実の時間をよりどころにすることがなく、背景のまったく見えないただの独白、言葉がつづいていく。言葉が生まれるということそのものについての小説とも思える。
おもしろいのか、というと、感情を上げたり下げたり、物語の動きに心を活発にさせたり、という意味ではぜんぜんおもしろくない。実際、何度も読むのをやめようかと思った…。しかし、自分が以前に読もうとしたベケットの小説「マロウンは死ぬ」と、それから「マーフィー」は、途中で読み進めるのをあきらめ、投げてしまったので、さすがにこれも投げるのはくやしいと思って、なんとか読みつづけた。もちろん上に書いたような意味では(簡単にいうとエンターテイメントとしては)おもしろくなくても、小説としてはおもしろい(おもしろいと一言でいってしまうと乱暴だけれど…)。この小説を読むという体験が、それまでに経験したことのない未知の体験であるということは、はっきりと分かる。そして、この小説を読んでいるときに生まれている心の状態が、この小説を読むことでしか生まれないものだということも分かる。
なにかを決定してしまうということを避けつづけ、すべてのことがなにも分からないという状態。まるで、いつ落ちるかもしれないまま、空気のようなところを歩いているようだった。圧倒的な量の(ある意味で空っぽな)言葉を浴びつづけ、ほとんど嫌気を感じながら、それでも読み進めていった。読み終わっても、結局なにも解決せず、ただ言葉を生んでいくという意志みたいなものだけが、あとに残された。