柄谷行人「柳田国男試論」より以下引用。


 …これは美についてもいうことができる。坂口安吾は、ブルーノ・タウトの礼賛した桂離宮などはつまらないもので、小管刑務所とドライアイス工場と軍艦をあげてこういうものが美しいのだといったことがある。それらは、「ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっている」からである。


 《僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってはならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。》(坂口安吾「日本文化私観」)